

車は山手通りから方南通りを抜けて、井の頭通りへと向かっていた。
店を出ておねえさんと食事に行こうと思ったけど、二人とも相当酔っ払っていたの で、食事に行くのが面倒くさくなっていた。おねえさんは車を駐車場に止めていて、 これ以上飲むと運転できなくなるというので、食事もお酒も止めにして、おねえさん の家におじゃまして簡単なものを作って食べることになった。おねえさんの家は永福 町の方で、わたしと方角が同じだった。おねえさんは後で家まで送ってくれると言っ た。
「時間はだいじょうぶ? おうちの方は?」
時計を見ると九時を過ぎていた。
ちょっとまずいかなと思ったけど、酔っ払ったまま家にも帰れないので、全然だい じょうぶだ、わたしは大人だし家は理解のある家庭だ、などと適当なことを言った。 おねえさんの車は赤いスポーツカーで、丸いデザインがおねえさんによく似合った。 酔っ払ったおねえさんは案外しっかりしていて、車に乗ると全然お酒を飲んでいない ように見えた。
車は方南通りを走っていた。
「ちょっとコンビニに寄るわね。スパゲティーでいい?」
「はい。」
おねえさんは車を止めて通り沿いのコンビニに入った。
おねえさんが買い物をしている間、わたしは車の中でラジオから流れるクラッシック 音楽を聴いていた。酔った頭で、こんな時間におねえさんと二人で車の中にいる不思 議を思った。偶然が紡ぎ出す運命に似たおとぎ話....。 ふとおねえさんはどんな音楽を聴くのだろうと思い、運転席と助手席の間のボックス を開けてみた。ボックスの中には外国の音楽のCDと、ハンカチの包みが入っていた。 何気なく包みを取り出して中を開くと、中には白いマスクがあった。
あの日のマスクだ。
はじめて会った日のおねえさんの姿が目の前に浮かんだ。
その瞬間突然、押さえ切れない奇妙な感覚がわたしを襲った。わたしは衝動的に手に した包みを自分のカバンの中に押し込んだ。そして急いでボックスに元どおりフタを した。なぜなのか自分でも分からなかった。 心臓の鼓動が速くなり、それを押さえつけるようにカバンを胸に抱いた。手が震えて いた。頭は冷静だった。
ラジオは静かな交響曲を流し続けていた。
カバンを胸に抱えたまま、目を閉じて、はじめて会った日の、白いマスクをしたおね えさんの姿を思い浮かべた。
それは映画のシーンのように鮮やかに映った。
わたしは頭の中で何度もそのシーンを繰り返した。
そして、どうにもならない力にのまれて行く自分を感じた。
通りには虹色のライトが次々と流れていった。
ぼーっと夢の中に浸っていると、助手席の窓をノックされた。窓の外をみると、おね えさんが両手にいっぱいに荷物を持ってわたしに合図をおくっている。わたしはドア を開けた。
「ごめんねー。ちょっと持っててもらっていい?」
「あっ....はい....」
袋にはスパゲティーの材料の他に、ワイン2本、チーズが数種類、オイルサーディン の缶詰、飲料水、その他ウエットティッシュなど、雑多な生活用品が一杯詰まってい た。
「わたしマメに買い物しないから、コンビニに寄るとついいっぱい買っちゃうゃうの よね。」
おねえさんは笑いながらドアを閉めて運転席にまわり、座るとエンジンをかけた。
車の中では二人とも無言だった。
わたしはドキドキしていた。
ラジオの音楽はオペラに変わっていた。
太った肉感のある女性の歌声が車中の空気に充満して息が詰まりそうだった。
「音楽変えてもいい?」
信号待ちで止まって、おねえさんはボックスを開き、CDを取り出した。
あ....
全身の血がサッっと音を立てて引いた。
おねえさんは何事も無かったようにCDを一枚選んでデッキに差し込み、ゆっくりと ボックスのフタを閉じた。 しばらくすると、お店で聞いたのとは違う、静かなJAZZが流れ出した。
信号が青に変わり、車は滑り出した。
おねえさんの部屋はマンションの二階で、二部屋の仕切りを取り払ったような広めの ワンルームだった。部屋の真ん中にカウンター付きのキッチンがあって、二つの部屋 を仕切っている。置いてあるものが少なくて、さっぱりとした上品な部屋だった。も し一人暮らしをするなら、わたしもこんな風な部屋に住みたいと思った。
「ちょっと散らかってるけど、適当に座ってね。」
床置きのソファーとビーズクッションがあったので、わたしはビーズクッションをひ とつ借りて床に座った。すぐに暖房が効いて暖かくなった。一人暮らしの女性の部屋 に入るのは初めてだったので、めずらしくてくるくると部屋の中を眺めた。カーテン や置物は西洋風のものでそろえてあって、全体に落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「シャワー浴びるなら使って。使い方分かるかしら....」
買ってきたコンビニ袋の中身を整理しながら、おねえさんはバスタオルを出してくれ た。
「あ....すいません....でも....」
「いいのいいの、気を遣わないで楽にしてね。着替えも良かったら使って。」
気がつくと新宿のバーに長く居たせいで、わたしの服や髪の毛はタバコ臭かった。
御好意にあまえて、シャワーをかりた。熱いシャワーを浴びながら、母親のことを考 えた。きっと心配しているだろう。不思議と罪の意識は沸かなかった。そして出来れ ばこのままずっとこうしていたいと思った。シャワーを出て、おねえさんの出してく れた厚手の綿のシャツとショートパンツに着替えたら、なんだか気分まですっきりと した。白いシャツにはポプリの香りがした。
おねえさんは着替えて、料理に取り掛かっていた。趣味の良いブラウスとスカートを 着て、髪を後ろに束ねていた。おねえさんが料理をしているあいだ、わたしは部屋の 本棚などを物色していた。本の数は少なかったけど、なんか哲学や精神分析の難しそ うな本が多くて、一冊取り出して眺めてみたが、内容はまったくチンプンカンプン だった。
「好きな本があったら持っていっていいわよ。」
「こんなの全部読んだんですか?」
「ううん、わたし、本は必要なところしか読まないの。わたしにとって必要なところ を読んだら、あとは捨てちゃうの。自分にとって必要なことって本当に少ししか無い んだと思うわ...」
「試験勉強しているときってそんな感じします。」
「あはは...そうね。でもあなたはまだ若いんだから、もっともっといろんな事を 勉強する時期でしょ。いろんなことを勉強して、やってみて、ゆっくりと大人になれ ばいいのよ...」
おねえさんがシャワーを浴びているあいだ、わたしがスパゲティーの番をした。ミー トソースはチーズや胡椒が加わって豪華な出来栄えになった。おねえさんがシャワー から出て、二人で一緒に盛り付けをした。スパゲティーにサラダとワインが加わって 立派な夕食が出来あがった。二人でソファーに座り、ワインで乾杯した。わたしは最 初の一杯だけ付き合って後はミネラルウォーターにした。スパゲティーは上等の出来 栄えだった。
夕食の後、食器を片づけて、おねえさんの借りてきていたウォン・カーウェイの映画 を見ながらお喋りをした。映画は殺し屋と彼を愛するパートナーの複雑な感情劇だっ た。ソファーにうつ伏せになって映画を見ているおねえさんの小さな足の指が朱くて 可愛かった。
「お化粧してあげようか?」
突然おねえさんがソファーから身を起こして言った。
「ねえねえ、してみたいでしょ...うふふ...」
「....えー...でもなんか恥ずかしいし....」
「だいじょうぶよ。練習練習。わたしがメイクの仕方をバッチリ教えてあげる。」
おねえさんはさもいい事を思い付いたかの様に楽しそうに奥の部屋に行き、お化粧道 具の入ったバッグと鏡を取って戻ってきた。
「えへへへ....お化粧ヴァージン奪っちゃおー....」
「あー...なんか...恥ずかしいです....」
「はい!こっちを向いて!いいの!女性なら誰もがすることよ。上手になったほうが いいでしょ。わたし人にお化粧してあげるの上手なんだから。」
わたしはソファーに座り直され、おねえさんのされるがままになっていた。おねえさ んは、口紅やアイシャドーをひとつひとつ塗っては私の顔を眺めて楽しそうに笑うの で、わたしは恥ずかしくてたまらなかった。
「あなたきれいな顔しているから、お化粧も映えるわ...。睫毛も可愛くカールし てるし...」
おねえさんは指でわたしの睫毛を撫でた。
「はい!完成!」
30分近く掛かってやっと完成した。
「あら....いいわ....綺麗よ....」
「......」
「鏡見たいでしょ...うふふ....」
おねえさんはわたしの背後にまわり、わたしの肩越しに鏡を差し出した。
「ジャーン!」
「あっ....」
そこには想像とは違う自分がいた。
「綺麗でしょ......」
横に映るおねえさんの顔と並んで、そこには不安定な、均衡を欠いた、秘密めいた少 女の顔があった。少女の顔は女へと変わりつつあった。
おねえさんはワインを一口飲んだ。
柔らかな笑みを浮かべながら、鏡越しにわたしの目をじっと見つめていた。
おねえさんの目はちょと酔っているように見えた。
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